昭和49年07月28日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 お徳を受けると云う事が、神様のおかげを十分に受ける事が出来ると云う事ですけれども、そのお徳を受けるという、様々な条件ていうか、これだけは必須の条件だと云う様なものが、私はあると思うです。今日の七時のご祈念の後に頂く御教えは、影と日向の心を持つなよという、御神訓に基づいて頂くわけですけども、これはおかげを受ける、お徳を受けると云う事の為の、必須の条件です。
 絶対の条件です影と日向のある様な心では、本当のおかげは受けてまいりません。所謂死んでもままよと言った様な気持ちで、そういう気持ち愈々ん時に、そういう気持ちを持つと云う事は、まあ十分の徳を受けるけれどもその内容です。昨日一昨日でしたかね、確かここん所を頂きました。二十二節今日も又この二十二節を頂きますけれども、所謂その内容である所の、だからまあ色んな条件が足ろわなければならない。
 まぁ例えばこの嘘を平気で言う様な、人が本当の徳を受けれる筈はありません。いうならば影と日向の心がある様な人が、お徳を受けられる筈はありません。そこで私共はお徳を受ける又は、お徳を受けておられる人達というのを、私共が見ますとそういう第一心が美しい実意丁寧裏表が無い、そういう私は信心をそういう改まりをなしていって、いくうちに様々な事が起きて来る。その起きて来るその問題を信心で受け止めていくと言う様な生き方、そこに十分の徳と言う様な事が頂けると思うんです。
 所が私共が自分というものを、いわゆる真善美と云う事をいわれる真と云う事。真と言う事は真と云う事。真の反対はいわゆる偽りと云う事、いわゆる嘘と云う事。もうほんとにこの嘘を平気で言う様な人は、おかげは受けられてもお徳は受けられませんです。ですからそう云う所をひとつ分からせて貰う、そして改まて貰う所が私共の、なら生活のあり方の中に嘘は無いかというと、嘘があり偽りがある訳です。
 偽りの生活をしておる、言うならば影と日向のある生活をしておる事に、改めて気が付く事が御座います。ですからそう云う様なものが段々なくなって行くという、おかげを頂くそして真の生き方、嘘の無い生き方がこんなにも楽なものかと云う事を、私は悟らしてもらわわにゃいけんと思う。嘘やら偽りやらと云う様なものがです、あったら何時もです、その嘘がいつばれるだとうかと思うて不安です。だから偽りの無い影日向の無い、私は生き方にならせて頂かなければ、という翻然としたものがです。
 心に開けて来なければならない。その事をこんな風に頂いた。「目に見えないものは信じないという人がある」ね、いわゆる只物的な考え方なのですね。心に中心をとしないで、もう実際のそこに物でなければ信用しないとこういう、実際にそこに見えるもので無からなければ、信じないとこういう。信心というのは目に見えないものを信じると云う事なんです。それを( ? )目の見えない神様、又はあるか無いか分からんけれども、自分の心というものを信ずる心がある事を信ずる。
 おかげはだから和賀心にありと仰るのだから、あるか無いか分からんけれど、そのあると心を信じて、その心を愈々清めても行こう、改めても行こう磨いても行こうというのです。心を磨くと云う事などはそのものを所謂、目に見えるものでなければ信じないという人は、心にそうした条件を置かない。そこでですこれは私が二十もう五、六年も前だったでしょうか。福岡でお商売をさせて頂いております時に、あるお得意さんからあのあすこは、水道なんとかあちらに大変桜の名所がありますね。
 あすこに桜の満開の時分に招待を受けた。その頃はお酒なんかは、もう滅多に手に入りませんから、焼酎を少し用意して来てありました。それからあのまあ空き腹に焼酎を頂いてからもう酩酊してしまって、帰りは一緒に行った友人に、もうやっと送られてその方の家まで来て、そしてそこで酔い潰れてしまって、そしてもう寝てあるから起こしなさんな、というてそのもう終電車の、私その時分に姪浜のちょっと手前の方うにおりました。もう電車のもう愈々なくなる頃まで、もう眠ってしまった。
 もうほんと目覚ましたら、その方の家に休んどるもんですから、ビックリしました。いまのあそこは野球場のある、東側に小さいまあそれこそバラックの様な家が沢山建っておりました時分でした。まだ野球場なんか無い時ですあのお堀端ですね、そりゃもうこりゃもう、最後の終電車に間に合わんと困るが、と思って行ったらまあ今から走っていけば間に合うという時間でした。もう真っ暗で電気もありませんし、あのお堀端を抜けて、あそこを一生懸命その急いできよりましたら。
 丁度私の頭の上でですねもうそれこそ大きな声で、誰かもうそれこそげらげらと笑う声がしました。フッと後を向いたら誰ぁれもおらんとですもん。それがこの(?)笑われたんです。もう私は身の毛がよだってもう一生懸命に、電車の停留所迄来た事を覚えとります。今から考えて見るとね、今日のその日の醜態を、神様が笑いなさったなあ、と思うです。もうそりゃもう私はあん時はビックリしました。もうそういうまあ言うならば、恐い様なお堀端を通っておるときですからね。
 もう真っ暗電気も点いていない、まあ是はです言うなら、神様がはぁもう今日の、そのまだ神様のお知らせなんかて、全然頂かない時分ですからね。もうあん時は本当いま思い出してもビックリ致します。もう丁度後この辺で、もうげらげらと笑うんです。もうビックリして後ろ向いたら、誰ぁれもおらんとですよ。あれはもう確かに神様が笑いなさった。やっぱその時分から神様が一つの、なんか期待の様なものを私に掛けられておった様に思います。今日の醜態はどうかと神様がまあ笑いなさった。
 言うならばです、人には笑われても神様には笑われてはならん、と言った様な心がでけて参りますとね、影日向という心はもう必ずなくなって行くです。神様を信じておるというても、おかげを信じてはおるけれども、ほんとの神様を信じていない、神様はどうある事を求めておられる、神様はどうあってくれと言うておられる、と云う事を信じれれる様になったら、嘘なんかは言われませんし、影と日向の心はもたれないです。
 影やら影と日向の心があってもです、嘘を言うてもです悪い事をしてもです、お願いをすれば、おかげは頂かれる神様ですこの神様は。お前は嘘言うからもうおかげはやらんと仰る神様じゃあないです。けれども十分の徳を受けようと思えばです、ままよという心にならなければならん、ままよと云う様な心を出さなければです、そういう人間のもう腹の底から染み付いておる様な、改まりは出来ないです。
 それにはです矢張り、神様を目に見えない様なものを信ずる、といういわゆる神様に笑われてはならん、人から笑われても神様から笑われる様な事があっては、ならんと云う所から本当な信心もでけて来る様になるし、本当な改まりもでけて来る様になると思うですね。神様が何時も見ておいでだから、聞いておいでだからというそういう、それを信じての生活こそが私は信心生活であり、またそういう生活が出来る様になって来る時です、裏表のある様な事は出来ません。
 人が見ておるからこうする、人が見ていないから、こうその悪い事でも平気でやっていく、言った様な事は出来なくなる。むしろ目に見えない所を、むしろ大事にすると言った様な心が育って来るんです。皆さんがどうでも言わば本当に素晴らしいおかげを受けて頂かなければならん。今日大黒様がこんなに沢山ここへ、集まっておられます。神様合楽の教会に、言うならば総集合を命じられたような。
 神様これから大黒様が、これからどんどん集まって来なさるでしょう。そして又ここで力を頂いて、又銘々の家庭に帰っておい出られる。と云う訳なんです。是は皆さんが私の言う事を信じておるから、こうなさるのです。下作か事でんなければ、おかしい事でもない、あの人が欲の深かけんで、もう大黒様をあげん持って来て、御座るというのじゃないでしょう。私を信じておるから持って来るのでしょう。
 そしてなら私を信じて下さると云う事は、どう云う事かというと、そのまま私は目に見えないもの、言うならば神様を信ずると云う事にほかならないと思うのです。今日は私この二、三日、昨日、一昨日でしたかは、ままよという心を出さねば、是は大変な矢張り勿論、度胸の要る事であります。けれども十分の徳を受けようと思えばです、ね、いよいよの場合にそれこそままよという、又はままよと云う事は死んでもままよ、と言う程しの潔い心なのです。
 そういう潔い心というものがです日頃常平生、今日私が申します、その内容となる所の、信心がでけておらずしては、出来んのです。本気で磨がいてもおこう、改まってもおこう、親先生の言うことを本当に忠実に守らせて頂こうと云う様な、日頃の信心の稽古が出来ておらずしてはです、愈々ん時に、でけんです。今日私は取分け今日昼の、御祈念後に聞いて頂く訳になりますけどもです。
 目に見えないものを信ずる、言うならば神様を信ずる、神様がなら、どう云う所を信ずるかと、神様はおかげは和賀心にあるという神様、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、本気で改まってくれよ、本気で磨いてくれよと、本気で影と日向のある様な心を捨ててくれよと、そういう願いを私共に持って御座る。ほんとにおかげを頂きたいならね、言うなら嘘のない生活に入らなきゃいけない。
 偽りのない私にならせて頂くという、言うならばおかげを頂かしてもろうて、そういう本気での信心の修行がでけてこそ、始めて愈々の時にままよという心も生まれて来るのです。神様がいうなら見どうし聞きどうし、そういう神様が見どうし、聞きどうしに見て御座る聞いて御座る、その神様にいわば笑われてはならんと云う様な、信心が分かると、ほんとの意味においての、信心生活がでけると思うですね。その上の大黒様でなからなきゃならんですね。